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維新伝心 ~校長室より~

小判校長の教育論

本校の教育理念を基盤とし、そこから発する校長の教育論は、毎日学校全体に響き渡っています。
このコーナーは、その一部を紹介していくコーナーです。

今まで、縁の下で日陰生活を余儀なくされていた通信制の高等学校が、日の目を見る日が近づいている。少子化が進む中、労働力を確保するために義務教育を終えると、子どもたちは専門的な路線の選択を迫られることになる。とりあえず普通科高校へ進学という悠長なことは言っていられない。

 学問か労働かスポーツか芸術か・・・。

 いずれかの道に進むことになる。しかし、高等学校の基礎的な知識、そして、卒業資格は必要となる。

 働き家計を助けながら、学ぶ。

 プロのサッカー選手を目指しながら学ぶ。

 漫画家を目指しながら学ぶ。

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 こういった子供たちの為に通信制、単位制の高校は力を発揮する。つまり、生活の基盤を作るための責務の一端を通信制高校は担うことになる。

 あけまして

 おめでとう

 ございます

 七〇歳の新年を迎えた。

 古い友人からの賀状の中に〝何もしないまま古希を迎える〟と言う内容が書かれていたのを見て、同感した。

 彼は文学の研究者で、大学の文学部長から副学長まで務めた男なのに、こんなことを感じるのであれば、私などそう思うのが当然だ、と変に納得。

 過去の一コマ一コマはぎっしり詰まっていたに違いないが、その集積は、軽く感じられる。それは、多分やり残したことがあるせいだろう。

 彼は韻文の韻律の研究を深めるつもりだろう。私は、校長として最後の最後の日まで学校運営を全うしなければならない。

 そして、その後、時間がいただけるのなら小説をかたちにしてみたい。

 確か、昔、中曽根首相の時に出された「臨教審最終答申」の中に〝個性重視の原則〟と言うのが一番最初に掲げられている。さらに、量から質へ、画一・均等から多様性・選択の自由へが細目として示されている。僕はこれを見たとき、やっと来たなと心を躍らせた。でも、それ以後ずっと画一的教育が続き、偏差値教育が確固たる手段としてゆるぎなきものとなった。そんな中で、レールの上を走ることのできない子供たちは未来へ向かう活力を失い、中には自暴自棄に陥り刹那的生活に明け暮れるものも出てくる。

 僕も実はそうだった。団塊の世代の一番最後だった。競争して勝ち抜くことがよりよく生きることだった。僕は一つ合格した大学を蹴飛ばして京都で自分探しの放浪生活を始めた。思想にも武道にも文学にも首を突っ込んだ。でも、いくら一生懸命になっても一人芝居で終わってしまった。

 今も形は異なれ、同じような子供たちが沢山いるような気がしてならない。そんな子供たちのために昨年から個別指導学級をつくり〝個性重視の教育〟をはじめた。1年2名、2年2名、3年2名でスタートした。

 僕は国語を担当しているが、1年2年3年が混在するクラス2時間続きの授業の中で1人10分から20分は自学自習して作成したレポートをマンツーマンで指導している。この短い時間こそ教師と生徒との間に血が通うとても大切な黄金の時だ。

 肌の触れ合う間合いだからこそ、生徒のことや先生のことが理解できることが多々ある。この個性重視の教育を全体の教育に広げていくことを今、本気で考えている。〝師弟一体〟とまではゆかないまでも、教師と生徒との距離を縮めることが今後の教育の最重要課題のような気がする。

 少子高齢化、災害、・・・今まで出会ったことのないことが目の前で起こっている。

 思い返せば昔にもあった。わすれているだけだ。

 それに、まだ、テレビが普及されていない時代。報道に煽られることもない。

 昔遠くにいたガン患者がいま身近にいっぱいいる。

 全て変化への〝おそれ〟ですね。

 この変化への対応力が必要となってきます。

 〝平常心〟ですね。

 ギリシャ哲学(ストア哲学)では、この変化には意味がある、つまり、この変化を受け止めるという考え方です。

 今まで生きて来れたんだからこれからも生きられる。

 歴史が終わることはない。

 未来をおそれるあまり、今の生き方がいい加減になる。

 これが一番危険なことではないかと思います。

一輪車は何度も何度も練習すれば乗れるようになるのと同じように大脳や小脳も学習を反復すると神経回路が劇的に活性化され、つまり考え方や行動が変わる。毎日の「生徒心得」の唱和は、そのためにやっている。一つ一つは明日からの生徒の行動の動力となる。だからやっている。本気で取り組んでほしい。

現代人が人間関係が築けず孤立化しているというのは人と人との間合いに問題があるように思います。人と人とが一つでないといけないと思っている人は、人を敵か味方かで識別しているのです。人は敵でも見方でもなく良き協力者なのです。良き協力者たり得るためには良き車間距離ならじ人間距離が必要となります。人を支えあったかたちだと言いますが。人と言う字はもともと人のすがたをかたちどった字で支えが取れたら倒れるような人では困ります。一人で立ち人と助け合える人こそ真の人間なのです。

2018年01月08日

  めでたさも
   中位(ちゅうくらい)なり
     おらが春
          一茶
    ※春・・・正月

苦難の日日を送っていた一茶が、人並みの生活を手に入れた感慨を詠んだ
新年の句だと記憶している。
ついつい人と比べてしまう。自分の幸せの物差しが人の暮らし振りならば、
人によって自分の幸せが決まってしまう。
何かさびしい気持ちがする。
自分の行く年も来る年も、自分が見返し自分が描くもの。
人ではない自分をしっかり見定めたいものだ。

確かに見たぞ

2017年12月01日

禅林学園高等学校の演武祭「団結」の余韻にひたっている今日この頃です。
ビデオを見直し、見てなかったところに目を向けた時、人の感想とはまた違った自分だけの新たな気付きがあります。
一生懸命やるということに照れながら自分のからだを動かそうとしている姿に、本来心を感じずにはおれません。
これが、この君(くん)の本来の姿なんだと確信し、ほくそ笑む(納得しひそかに笑う)。
がんばっている、いや、がんばろうとしている仕種(しぐさ)を確かに、この目で見たぞ。

団結

2017年10月02日

あっという間に夏が往き、ちょっと目を離している隙に彼岸花が枯れかけています。
季節は一定のスピードで循環し、私のように68歳の爺さんは、ついつい最期(臨終)の方をみてしまうのでしょう。
若い君達は、うそのようなはなしです。
後期のメインイベントである『演武祭』の今年のテーマは「団結」。生徒が決めてくれました。
「団結」、今や古くさい言葉となりましたね。
我々、人間というよわい動物は、力を合わせて生きのびてきました。
それが、いつの間にか一人一人の力を競い合う激しい競争社会ができ上がり、人と人とが協力し合いながら生きていくことの大切さが忘れ去られてしまいました。
すべての人が勝者をめざす価値観は、だれしも敗者になるということを度外視しているように思えてなりません。
〝勝つことばかり知りて 負くること知らざれば 害その身にいたる〟
 徳川家康の遺訓です。
自分が弱者であるという認識は、全ての出発点でなくてはなりません。
弱者だからこそ、強者をめざすのです。たとえ何かの勝者となっても、いつまでも勝者であるはずがなく、だから、勝つことばかりを考えている人は、敗けることにびくびくしながら生きていくことになります。
人と競い合い勝者をめざすよりも、人と協力し合いながら生きていく方が、どれほどのびのびと生きることが出来、収穫も大きいことか。
「団結」の大切さを感じとっている生徒達はすごい。大したものだ。

2017年08月30日

禅林学園高等学校が開校して5年目。
「行き場のない子供をつくらない」
子供達はそれぞれいいものを持って生まれている。
なのに、なぜ行き場を失い未来を閉ざされた子供達が彷徨うのか。
子供達を導く私達大人がしっかりしないといけない、と痛感する。
そんな小さな思いが、高等学校開校の原動力となったことに
今さらながら本校教育の重要性を再認識し、使命感を新たにする。