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維新伝心 ~校長室より~

小判校長の教育論

本校の教育理念を基盤とし、そこから発する校長の教育論は、毎日学校全体に響き渡っています。
このコーナーは、その一部を紹介していくコーナーです。

平成三十一年度入学式

 

式辞

 

ひさかたの光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ

 

古今集の中にある紀友則の歌であります。

 春ののどかな光の中をあわただしく桜の花びらが飛び舞っている静中の動、静と動とのコントラストの妙味を詠んだ歌でありましょう。のんびりとした春のひざしの中で新しい生活にむけてときめいているみなさんの心そのものではないでしょうか。

 今日は多度津町長の丸尾幸雄様、多度津町教育委員会教育長の田尾勝様をはじめ、部内からは各代表顧問、幹部の皆様方や阿蘇品PTA会長さん、保護者の方々の御列席を得、また、京都から少林寺拳法を正課とする京都広学館高校の本部広樹理事長がかけつけてくださいました。また、出身中学校の先生も見えられています。

 平成から令和への橋わたしとなる本日の入学式を挙行できますことは、この上ないよろこびであります。

 新入生の皆さん、御入学おめでとうございます。

 九年間の義務教育を終え、本日禅林学園高等学校の一員になられました。在校生、教職員一同みなさんを心より歓迎いたします。また、ご列席の保護者の皆様方には、これまでのご苦労をねぎらい申し上げ、心よりおよろこび申し上げます。

 さて、本校で高校生としての生活を始めるにあたってお話しておきたいことがあります。

 新入生の皆さんは、県内、外のあちこちからさまざまな思いを胸にこの多度津の地に駆けつけて来られました。今、皆さん方一人一人の胸の内にはそれぞれの夢と期待が未来に広がっていることと思います。

 みなさん方がこれから生きていく社会は、少子化、高齢化、人口減少がどんどん進んでゆき、労働力の不足を外国人労働者、AI、女性、高齢者が補うことになります。それに長寿社会が拍車をかけることになります。

 みなさんは、長生きできるかわりに、生活能力という代償を払わなければなりません。つまり、ほとんどの多くの人は、長い間、働かなくてはなりません。

 みなさんが社会人になる頃には、職場の働き手を確保するために、また、生計を立てるために、一人で二つ以上の仕事に従事する副業や兼業をする人が増えてくるでしょう。

 すでに、今でも私の知人に早朝トラックで運送の仕事をし、昼間は、パンの製造工場で働き、夜は、少林寺拳法のスポーツ少年団の部長として、地域の子供達のために活動をしている人がいます。その人が言っていました。「一番大切なのは、健康だ」と。

 みなさん、長生きすれば、生活するための経済的リスクが伴います。病気でもなろうものならなおさらです。

 健康であれば、七十歳になっても八十歳になっても働くことができます。

 通信制の生徒達は元気で生活力のある人が多くいます。仕事を持ちながら学ぶ人もいれば、プロをめざしながら学ぶ人もいます。

 どんな仕事をするにしろ、どんなスポーツをするにせよ、学ぶ姿勢があるのとないのとでは、雲泥の差が出てきます。そして、それを支えるのは健康です。健康は何かをなすために絶対に必要なものなのです。

 本校には、“ダーマ信仰”が教育のバックボーンとしてあります。生徒一人一人には、生まれながらに天分が備わっているので、それに気づかせ、自分に誇りを持たせ、磨きをかけるという教えであります。

 また、“人は人を幸せにするために生まれてくる”

本学園宗由貴理事長の教育理念であります。

 社会の弱者から目を逸らさない“力”と“愛”を涵養する「力愛不二」の理念であります。

 ただ今の皆さんの気持ちは、入学の喜びとこれからの新しい生活への不安が交錯していることと思います。

 新入生のみなさん、さあ、今日からスタートです。

 一からスタートする人、0からスタートする人、マイナスからスタートする人とさまざまですが、どうか一日も早く本学園の生活に慣れ、禅林学園高等学校生として、自分探しの第一歩を踏み出していただきたいと願っています。少林寺拳法の創始者であり、本学園の創設者でもある宗道心先生の声がどこからか聞こえて来ます。

「古傷はもう忘れてしまえ。なんぼ考えたって、きのうのことは取り返せるか。きのうはきのう、きょうはきょう、あしたはあしただ。これが精神生活を改造する根本になるんだよ。過去はいっさい今日から忘れろ」

 過去にとらわれず。未来にためらわず、一生懸命になった時、自分の本領が見えてくる。

 最後になりましたが、保護者ならびに関係の皆様方には、禅林学園高等学校の教育方針をよくご理解いただき、本校の教育活動の推進者になっていただきますことをお願い申しあげまして、式辞といたします。

 

 

 

 

平成三十一年四月六日

禅林学園高等学校

校長 小判 繁樹

平成三十年度卒業証書授与式

式辞

 

 草の戸も住みかはる代ぞ雛の家

 

 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出発する時、詠んだ句であります。おそらく三月三日のひなの節句前後の句でありましょう。

 今まで住んでいた隅田川の粗末な家をひな人形がかざられる、女の子のいる家族にゆずり渡し、当時未開の地であった東北、北陸へ旅立つ孤独な俳句修行への決意がうかがわれます。

 ただ今本校を卒業される皆さんに卒業証書をお渡ししました。今日の日をどれだけ心待ちにしておられたことか、保護者の皆様方の御心中を察し、また、御苦労を思い、心からお祝い申し上げます。

 今日は皆さんの門出をお祝いするために、多度津町長の丸尾幸雄様、多度津町教育委員会教育長の田尾勝様、香川県議会議員の新田耕造様をはじめ、出身中学校や道院やスポーツ少年団から先生方がお見えになっています。また、京都から少林寺拳法を正課とする京都広学館高校の校長中西伸也先生がかけつけてくださいました。部内からは各代表顧問幹部の先生方にご出席いただいています。

 在学中の御厚情に対し、皆さんとともに感謝申し上げたいと思います。

 また、教職員一同は、本校の教育を修了された皆さんを社会に送り出すことができますことを誇りに思いますと同時に、これからの皆さんの前途が光り輝くことを願い、心から祝福をおくるものであります。

 さて、思い返せば三年前、禅林学園高等学校の真新しい門をたどたどしい足どりで潜ってこられました。

 今皆さんの脳裏には、入学以来、学園での日日の思い出が走馬灯のように去来し、感無量の思いで一杯であろうと思います。

 これから皆さんが足を踏み入れる社会は、かつてない少子化、高齢化、労働者人口の減少というゆゆしき事態に直面することになります。

 今までの我々の経験則が通用しない時代が間近に迫っています。考え方も心のあり方も根本からリセットしなければなりません。

 高齢者が増え、少子化がすすんでゆけば、労働力を高齢者に求めるようになります。仕事を終える年齢がひき上げられます。寿命がのびることがこれに拍車を掛けます。

 職業も一生に全く違う仕事を二つ三つとやるようになるでしょう。そして、それをやり抜くためには、まずは健康、そして精神力(心)が必要となります。宗道臣先生は「正しい修養の道は、先ず霊の住家である肉体を養いながら、心即ち霊を修めるものでなくてはならぬ」と心とからだを修養することの大切さを説いておられます。また、さらに

「頭や理屈では説明できても、どうにもならない世の中を我々は生きているということだから、取り越し苦労をするなと、これまでも私は諸君によく言ってきた。どうなるのかという心配などするな、と同時に、ならん先にあきらめるな。どんなにつらいことがあっても、今はどんな逆境にあっても、生きてさえおれば、命さえあれば、人生は必ず変わるのである。変えられるのである。これを自分の信念として叩き込め。あきらめるなよ。これが本気でわかったらな、生きてるってことが、しごく楽になる」と苦境を生きてゆく信念を説かれています。

 これからの時代、みなさん一人一人は貴重な働き手としてそれぞれが担う役割と責任は大きなものがあると思います。

「人間、自分のことができて半人前、他人のことができて一人前」

みなさんがいくら自分の力で生きていけるようになっても、自分のことだけにかまけている限りは半人前でしかないのです。愛する家族や友達のため、世のため人のために役立つようになってこそ一人前なのだと私自身にも常に言い聞かせています。

 宗由貴本学園理事長の「人は人をしあわせにするために生まれて来る」のお言葉をしっかり心にとどめていただきたいと思います。

 西洋のことわざに「三月はライオンのようにやって来て、羊のように去って行く」というのがあります。三月は冬の北風と春の南風とが激しくぶつかる月であります。のどかな日もあれば、一転して春の嵐が吹き荒れる日もあります。みなさんの人生もこの三月の気候のようなものでありましょう。その中でひるむことなく、たくましく堂々と生きていかれることを切に願って式辞といたします。

 

平成三十一年三月三日

禅林学園高等学校

校長 小判 繁樹

今まで、縁の下で日陰生活を余儀なくされていた通信制の高等学校が、日の目を見る日が近づいている。少子化が進む中、労働力を確保するために義務教育を終えると、子どもたちは専門的な路線の選択を迫られることになる。とりあえず普通科高校へ進学という悠長なことは言っていられない。

 学問か労働かスポーツか芸術か・・・。

 いずれかの道に進むことになる。しかし、高等学校の基礎的な知識、そして、卒業資格は必要となる。

 働き家計を助けながら、学ぶ。

 プロのサッカー選手を目指しながら学ぶ。

 漫画家を目指しながら学ぶ。

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 こういった子供たちの為に通信制、単位制の高校は力を発揮する。つまり、生活の基盤を作るための責務の一端を通信制高校は担うことになる。

 あけまして

 おめでとう

 ございます

 七〇歳の新年を迎えた。

 古い友人からの賀状の中に〝何もしないまま古希を迎える〟と言う内容が書かれていたのを見て、同感した。

 彼は文学の研究者で、大学の文学部長から副学長まで務めた男なのに、こんなことを感じるのであれば、私などそう思うのが当然だ、と変に納得。

 過去の一コマ一コマはぎっしり詰まっていたに違いないが、その集積は、軽く感じられる。それは、多分やり残したことがあるせいだろう。

 彼は韻文の韻律の研究を深めるつもりだろう。私は、校長として最後の最後の日まで学校運営を全うしなければならない。

 そして、その後、時間がいただけるのなら小説をかたちにしてみたい。

 確か、昔、中曽根首相の時に出された「臨教審最終答申」の中に〝個性重視の原則〟と言うのが一番最初に掲げられている。さらに、量から質へ、画一・均等から多様性・選択の自由へが細目として示されている。僕はこれを見たとき、やっと来たなと心を躍らせた。でも、それ以後ずっと画一的教育が続き、偏差値教育が確固たる手段としてゆるぎなきものとなった。そんな中で、レールの上を走ることのできない子供たちは未来へ向かう活力を失い、中には自暴自棄に陥り刹那的生活に明け暮れるものも出てくる。

 僕も実はそうだった。団塊の世代の一番最後だった。競争して勝ち抜くことがよりよく生きることだった。僕は一つ合格した大学を蹴飛ばして京都で自分探しの放浪生活を始めた。思想にも武道にも文学にも首を突っ込んだ。でも、いくら一生懸命になっても一人芝居で終わってしまった。

 今も形は異なれ、同じような子供たちが沢山いるような気がしてならない。そんな子供たちのために昨年から個別指導学級をつくり〝個性重視の教育〟をはじめた。1年2名、2年2名、3年2名でスタートした。

 僕は国語を担当しているが、1年2年3年が混在するクラス2時間続きの授業の中で1人10分から20分は自学自習して作成したレポートをマンツーマンで指導している。この短い時間こそ教師と生徒との間に血が通うとても大切な黄金の時だ。

 肌の触れ合う間合いだからこそ、生徒のことや先生のことが理解できることが多々ある。この個性重視の教育を全体の教育に広げていくことを今、本気で考えている。〝師弟一体〟とまではゆかないまでも、教師と生徒との距離を縮めることが今後の教育の最重要課題のような気がする。

 少子高齢化、災害、・・・今まで出会ったことのないことが目の前で起こっている。

 思い返せば昔にもあった。わすれているだけだ。

 それに、まだ、テレビが普及されていない時代。報道に煽られることもない。

 昔遠くにいたガン患者がいま身近にいっぱいいる。

 全て変化への〝おそれ〟ですね。

 この変化への対応力が必要となってきます。

 〝平常心〟ですね。

 ギリシャ哲学(ストア哲学)では、この変化には意味がある、つまり、この変化を受け止めるという考え方です。

 今まで生きて来れたんだからこれからも生きられる。

 歴史が終わることはない。

 未来をおそれるあまり、今の生き方がいい加減になる。

 これが一番危険なことではないかと思います。

一輪車は何度も何度も練習すれば乗れるようになるのと同じように大脳や小脳も学習を反復すると神経回路が劇的に活性化され、つまり考え方や行動が変わる。毎日の「生徒心得」の唱和は、そのためにやっている。一つ一つは明日からの生徒の行動の動力となる。だからやっている。本気で取り組んでほしい。

現代人が人間関係が築けず孤立化しているというのは人と人との間合いに問題があるように思います。人と人とが一つでないといけないと思っている人は、人を敵か味方かで識別しているのです。人は敵でも見方でもなく良き協力者なのです。良き協力者たり得るためには良き車間距離ならじ人間距離が必要となります。人を支えあったかたちだと言いますが。人と言う字はもともと人のすがたをかたちどった字で支えが取れたら倒れるような人では困ります。一人で立ち人と助け合える人こそ真の人間なのです。

2018年01月08日

  めでたさも
   中位(ちゅうくらい)なり
     おらが春
          一茶
    ※春・・・正月

苦難の日日を送っていた一茶が、人並みの生活を手に入れた感慨を詠んだ
新年の句だと記憶している。
ついつい人と比べてしまう。自分の幸せの物差しが人の暮らし振りならば、
人によって自分の幸せが決まってしまう。
何かさびしい気持ちがする。
自分の行く年も来る年も、自分が見返し自分が描くもの。
人ではない自分をしっかり見定めたいものだ。

確かに見たぞ

2017年12月01日

禅林学園高等学校の演武祭「団結」の余韻にひたっている今日この頃です。
ビデオを見直し、見てなかったところに目を向けた時、人の感想とはまた違った自分だけの新たな気付きがあります。
一生懸命やるということに照れながら自分のからだを動かそうとしている姿に、本来心を感じずにはおれません。
これが、この君(くん)の本来の姿なんだと確信し、ほくそ笑む(納得しひそかに笑う)。
がんばっている、いや、がんばろうとしている仕種(しぐさ)を確かに、この目で見たぞ。